およそ700万年前、ヒトは誕生しました。ヒト以前はサルのような見た目をしており、ヒトともっとも近い動物として挙げられるのはチンパンジーです。ヒトのDNAはチンパンジーのDNAと塩基配列が約98.8%一致しており、ヒトの祖先はチンパンジーの祖先と同一だったといわれています。
二足歩行を始め、火を操り、石器をこしらえ、言語を発達させ、進化してきた人類。アフリカから地球の隅々まで生活領域を広げ、猿人・原人・旧人・新人と様々な種が盛衰し、約40万年前に誕生したホモ・サピエンスが唯一現代まで生き残っています。
我々ホモ・サピエンスは、世界を200の国に分け、それぞれの文明を発展させ、77億もの同胞をもつまで繁栄してきました。とりわけ17世紀の科学革命、18世紀の農業革命と産業革命、そして今まさに現代人が直面している情報革命は、人類の繁栄に大きく関わってきました。
繁栄とともに変化している環境や社会に適応するために、人間も進化を続けています。「進化」というとどうしても、「進んでいる」「発展している」というイメージを抱く傾向がありますが、必ずしもそうではありません。変化に適応するために「失うもの」も当然あるわけです。
今回は、我々ホモ・サピエンスがとりわけ近代から現代において、“進化”の過程で失ったものを4つ紹介します。
失ったもの① 視力
今この記事を読んでいる人は、テキスト読み上げ機能を使っていない限り、目で文字を追っています。スマホと目の距離はおよそ20〜30cm、パソコンで読んでいる人でも60cm程度でしょう。
現代人はこの固定した距離でディスプレイを見つめ続けることに多くの時間を割いています。その結果、近い距離にピントを合わせた状態が続くため、眼球がデフォルトで近くにピントを合わせるよう変化していきます。専門的にいえば、眼軸長(眼球の長さ=角膜頂点から網膜までの距離)が長くなるのです。
眼球が長くなった終着点が、近視です。近視とは、近くのものは明瞭に見えるが、遠くのものはぼやけて見えてしまう症状のこと。米国眼科学会が2016年に発表したデータによると、世界の近視人口は2000年で14億600万人(全体の22.9%)にのぼり、2050年には47億5800万人(全体のおよそ2人に1人)にまで激増するといわれています。またその結果、約10人に1人が失明するおそれがあるというのです。
けっしてスマホやパソコンそのものが直接的に、近視を代表とした視力低下を引き起こしているわけではありません。問題なのは近距離でものを見続けている生活習慣にあります。
かつて羅針盤や海図が存在しない時代、太平洋に点在する島々に住んでいたポリネシアの先住民たちは、航海において身一つで現在地と方角を導く術をもっていました。別名「スター・ナビゲーション」ともいわれるこの航海術には、遠くの星座と近くの海流を的確に捉える眼の力が欠かせません。
現代人はスマホで方角や現在地を知り、目標までの最短・最安・安全なルートを割り出すことができます。もう遠くの星だけでなく、近くの海流さえも見る必要がないのです。
失ったもの② 記憶力
科学技術が飛躍的に高度化した社会でテロや汚職と闘うキャラクターたちでお馴染みのアニメ『攻殻機動隊』。見どころは、脳に直接マイクロマシンを注入する「電脳化」されたキャラクターたちの攻防です。電脳化されると、脳からインターネットへダイレクトに接続し、世界中のあらゆる情報や記憶へ瞬時にたどり着けます。
現代人も電脳化まではいきませんが、スマートフォンやIoTデバイスといった外部装置を経由して、ワールド・ワイド・ウェブにインデックスされた情報にいつでもアクセスできます。またインターネット上でオープンにされている情報だけでなく、DropboxやiCloudなど一般消費者向けのクラウドサービスも普及し、個人的なデータも保存・共有・アクセスできるようになっています。
あなたは友人の電話番号をいくつ覚えていますか?ひとつでも覚えていたら上出来でしょう。もしかしたら、SNSでのコミュニケーションが主流な今は、そもそも電話番号交換すらしていないかもしれません。
そのほかには漢字。予測変換のおかげで学校で習っていない漢字すら誰しも打ち込めますが、いざ紙に書くとなると小学校レベルの漢字ですら手が止まってしまうことも珍しくないでしょう。
電話番号や漢字が分からないという問題はスマホがあれば即座に解決します。スマホという「外部脳」のおかげで、自分の脳で記憶しなくても心配ありません。このほかにも地図や電車の乗り換えからパスワードまで、生活に紐づくあらゆるものの“答え”を外部脳が提示してくれます。記憶の必要性から現代人は解放されているのです。
またスマホが手放せなくなった我々現代人は、目覚めている時間の多くを情報のインプットに費やしています。SNSの投稿やメッセージのやりとりをはじめ、ネット記事やネット動画の閲覧など、暇さえあればスマホでなにかをインプットしています。
脳の情報処理には3つのプロセスがあります。1つ目は「インプット」、2つ目は「整理」、3つ目は「アウトプット」です。この3つのプロセスが適切に繰り返されることで、記憶力など脳の機能は正常に保たれます。
しかし現代人は整理もアウトプットもそこそこに、インプットのみを重ねる傾向にあります。その結果、脳の中は整理されない膨大な情報で散乱します。
雑多に物が散らかった部屋と、整理整頓が行き届いた部屋、どちらのほうが勉強や仕事は捗るでしょうか。多くの人は後者でしょう。脳も同じで、整理されないままインプットが続くと疲労、ひいては過労状態に陥ります。これを「脳過労」といいます。
実際、スマホを肌身離さない30代〜50代の人々が脳過労となり、記憶力や意欲の低下を訴える事例が増えています。自分は10代もしくは20代だから大丈夫と思っている人もいるかもしれませんが、スマホに依存した生活習慣から抜け出せなければ10数年後に脳過労に悩まされていてもおかしくありません。
記憶力をはじめ脳機能を正常に保ちたい方は、外部脳との付き合い方を見直してみるといいでしょう。
失ったもの③ 非金銭的価値
『パパラギ はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集』のなかにこんな一節があります。
丸い金属と強い紙。彼らが「お金」と呼んでいるもの。これがパパラギの神さまだ。あの国ではお金なしには生きてゆけない。日の出から日の入りまで。(中略)そう、生まれるときにもお金を払わなければいけないし、死ぬときも、ただ死んだというだけで、家族はお金を払わなければいけない。からだを大地に埋めるにも、思い出のためにその上に置く大きな石にも、お金がかかるのだ。
この本は、文明を知らない部族の酋長がヨーロッパ(文明世界)を周遊したあと、故郷の人々に西洋文明や資本主義の恐ろしさを伝えた講演をまとめたものとされています(※諸説あり)。パパラギとは白人(ヨーロッパ人)のこと。またこの引用に続く一節にこんな言葉があります。
私はたったひとつだけ、パパラギの国でもお金を取れないことを見つけた。空気を吸うこと。だが、それも彼らが忘れているだけだと思う。この話をパパラギにきかれたら、息をするにもすぐに丸い金属と強い紙を取ると言いだすだろう。なぜなら、彼らは一日じゅう、お金を取る方法を探しているのだから。
つまり、酋長は故郷(非文明世界)とヨーロッパ(文明世界)の共通点として「空気」が吸えることを挙げています。そして、その「空気」さえもいずれ「お金」の対象になるだろうと。この予言ともとれる批判は現実のものになってきています。代表的な例が温室効果ガスの排出枠を企業や国家の間でトレードする「排出権取引」です。
空気だけでなく海や陸地も“本来的”には誰のものでもありません。しかし資本主義によって地球の共有財産は、誰かの所有物となり、値段が付くものとなりました。『パパラギ』に出てくる酋長はまさに、故郷の自然や豊かな暮らしが、西洋文明や資本主義によって貨幣交換の対象となるのを恐れたのです。
わたしたちの生活はあらゆるサービスのうえに成り立っています(自給自足的な生活をする人たちも一部はいますが圧倒的少数です)。そのこと自体を否定するつもりはありません。ただし、貨幣によってサービスが取引される現代社会においては、どうしても金銭的な価値が主になる事実は認めないといけないでしょう。
その結果、とりわけ都市において、人の価値は「生産性」や「市場価値」によって決められるようになりました。いかに短い時間で経済的な成果を出せるか、いかに稀有なスキルを身に付け貴重な人材となるか。国や企業はそれらを価値として、人を評価します。
生産性や市場価値を重視し過ぎると、差別に行き着きます。最たる例が相模原事件です。植松被告は「障害者は生産性(価値)がない」と決めつけ、知的障害者福祉施設で入所者19人を殺しました。植松被告を凶悪殺人犯として片付けることは簡単ですが、悲劇を繰り返さないために、そしてわたしたちの中にある優生思想的な差別の芽を摘むためには、彼の思想を生み出してしまった社会を見直すべきでしょう。
空気や水といった地球の共有財産は“本来的”には誰のものでもない、つまり貨幣で交換できるものではないと先に述べました。人も同じです。人も“本来的”には値付けできるもの(価値換算)ではないはずです。
世界の富豪トップ8人が世界人口の半分と同等の資産を持ち、経済格差が国内でも世界的にも拡大している現代において、貨幣で交換できない価値について改めて考える必要があるでしょう。
失ったもの④ 自然への畏敬
ガリレオ・ガリレイが望遠鏡による天体観測から地動説を証明し、ニュートンが万有引力の法則を発見した17世紀は「科学革命」の時代と呼ばれています。
科学革命によって、それまで神や妖怪など人間の理解を超えた存在が起こしていると考えられた自然現象の数々は、数学的に理論付けされるようになりました。その結果、それまでの「自然が人間を支配する」という環境中心主義的な思想から、「人間が自然を支配する」「自然環境は人間が利用されるために存在する」といった人間中心主義的な思想に置き換わり、またたく間に世界中に広まりました。
人間中心主義が存在していたのは1920年代までとされていますが、その思想は現代社会にも色濃く影を落としています。
WWFの『生きている地球レポート2018』によると、経済活動を優先し自然破壊を進めた結果、2014年の時点で人類は1年に地球1.7個分の資源を消費しています。つまり、人間の資源消費スピードが、地球が資源を再生産する速度を超えているのです。また生物多様性に関しては「哺乳類、鳥類、爬虫類、両生類、魚類の個体群が、1970~2014年の間に平均60%減少」しているといいます。
2020年は、新型コロナウイルスのパンデミックによって、ウイルスの脅威が世界で共通の話題になりました。現在も感染拡大が止まらないなか「新型コロナウイルス=悪」という風潮も一部で見られます。たしかに命を奪うという悲劇を起こし、経済的にも世界恐慌なみの悪影響を及ぼしている要因ではありますが、新型コロナウイルスをはじめウイルスたちは古来から自然界に存在するものです。
生物学者の福岡伸一氏は朝日新聞のコラムで次のように述べています。
親から子に遺伝する情報は垂直方向にしか伝わらない。しかしウイルスのような存在があれば、情報は水平方向に、場合によっては種を超えてさえ伝達しうる。それゆえにウイルスという存在が進化のプロセスで温存されたのだ。(中略)病気は免疫システムの動的平衡を揺らし、新しい平衡状態を求めることに役立つ。そして個体の死は、その個体が専有していた生態学的な地位、つまりニッチを、新しい生命に手渡すという、生態系全体の動的平衡を促進する行為である。かくしてウイルスは私たち生命の不可避的な一部であるがゆえに、それを根絶したり撲滅したりすることはできない。
新型コロナウイルスをワクチンによって克服したとしても、歴史や科学が証明しているように、既存ウイルスが変異して新たな脅威となっていつか現れるでしょう。ウイルスは人間にとって不要でも、自然・地球にとっては必要であるから存在するのです。
絶対安全といわれた原子力発電所から放射能が漏れたように、超えるはずがないと信じた防潮堤を超えて津波が押し寄せたように、人間はすべてをコントロールできる存在ではありません。
「すべてをコントロールできると自惚れているから、地球温暖化や公害問題も起きてくる。今回のコロナは、人間には自然をコントロールすることはできない、という教訓でもある」と解剖学者の養老孟司氏も述べています。
人間の自惚れを省み、人知を超えた自然への畏敬の念を取り戻すことが今こそ求められています。
まとめ
進化(evolution)とは必ずしも身体や知能が発展・発達することではありません。時代時代の環境や社会に適応するために変化していきます。視力が落ち、記憶力が低下し、非金銭的価値を見失い、自然への畏敬の念を失いつつある我々ヒトが、これからどんな身体・知能を維持していきたいか。ひいてはどんな地球を維持していきたいか。その希望について改めて考え、生活を見直し行動していくことが、よりよい進化につながっていくでしょう。